長崎の人気観光地「グラバー園」を訪れた方の中には、「グラバーは本当に日本が好きだったのか?」と感じる方もいるかもしれません。異国風の住居、贅沢な造り、そしてフリーメイソンとの関係まで——今回は、グラバーという人物の背景とグラバー園の本当の意味を紐解いていきます。
トーマス・グラバーとは何者か
トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランド出身の実業家で、幕末期に日本に渡り、長崎を拠点に貿易や軍需産業で成功を収めました。彼は薩摩藩・長州藩と密接に関わり、維新の裏舞台で大きな役割を果たした人物でもあります。
また、三菱の創業者・岩崎弥太郎とも深く関係し、のちの日本の近代化にも影響を与えた存在として知られています。
グラバー園の豪邸は「贅沢」だったのか
グラバー邸は1863年に建てられた、日本最古の木造洋風建築とされています。西洋様式を取り入れたその構造は、当時の日本人にとって非常に珍しく、異文化を象徴する存在でもありました。
確かに庭園や外観の造りは立派で「贅沢」に見えるかもしれませんが、それは必ずしも快適さを追求したものではなく、商談や外交などのビジネス目的も含んだ多機能空間でもありました。
グラバーとフリーメイソンの関係
グラバーがフリーメイソンのメンバーだったという話は、グラバー園にあるフリーメイソンのシンボル「コンパスと定規」のマークなどからも広まっています。実際に会員だったとされる証拠は一部に存在しており、当時の国際的なネットワークを持つ実業家としては自然な所属とも言えるでしょう。
フリーメイソンは当時の英国紳士のネットワークの一つであり、陰謀論的に語られることもありますが、グラバーにとっては「世界で通用するビジネスパーソン」としての側面を補強する役割もあったと思われます。
グラバーは日本を嫌っていたのか?
「グラバーは日本が好きではなかったのでは?」という見方は、確かに異国風の生活様式や住宅デザインから浮かぶ疑問かもしれません。しかし、彼が日本人女性(ツル)との間に子どもをもうけ、晩年まで日本で過ごしていたことからも分かるように、単なる仕事のためだけではなかったと見るべきです。
息子の倉場富三郎は後に日本に帰化し、長崎市政にも関与するなど、グラバー一家は地域に深く根付いていました。これは「愛着」や「定住意思」の強さを示す事実のひとつでしょう。
グラバー園の今と観光の視点
現在のグラバー園は、当時の洋館を保存しつつ、園内からの景色や季節の花々も楽しめる観光スポットとなっています。異国情緒を感じられるその空間は、長崎の歴史と国際交流を物語る場として、多くの旅行者に愛されています。
また、グラバーの功績や日本との関わりを知ることで、ただの「洋館」ではなく、より深い背景を理解することができるのです。
まとめ:異文化の融合と人間ドラマが詰まった場所
グラバー園は、異国から来た一人の実業家が、日本の歴史の一部として刻まれた証とも言える場所です。豪奢に見える生活様式も、彼の生きた時代と立場を反映したものであり、日本との距離感を決めつける材料とはなりません。
観光地としての魅力だけでなく、「日本と世界の交差点」としてのストーリーを感じながら歩くことで、グラバー園の見え方は大きく変わってくるはずです。


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