九州を南北に貫く日豊本線は、鹿児島本線のように海岸沿いをなぞる直線ルートではなく、内陸や山間部に迂回する区間も多く存在します。本記事では、線路ルートの歴史的経緯と地理的制約を通して、その理由をわかりやすく整理します。
鉄道敷設の歴史的背景
日豊本線は明治期に複数の私鉄・官鉄路線が段階的に建設され、1901年から1923年にかけて九州東部を縦断するルートとして成立しました[参照]
当時は山間部の人口密集地や主要駅を優先したルート選定が行われ、短絡的な海岸沿いではない経路が選ばれたのです。
地形と軍事・基地の制約も影響
例として福岡県築上町では航空自衛隊築城基地の存在により、国道沿いに線路が大きく迂回する区間があります[参照]
古くからのルート整形よりも、地域の施設・基地設立後に後続工事で回避された経緯が見られます。
直線構築と複線化時の違い
昭和後期になって電化・複線化が進められた際、一部区間では直線・トンネル掘削による新線ルートも採用されました。
たとえば宇佐駅周辺では、新線(下り線)が3000m以上のトンネルを通る直線ルートとなり、旧来ルートの上り線と線形が大きく異なる箇所が存在します[参照]
鹿児島本線とのルート設計比較
鹿児島本線は軍事的観点から海岸沿いを避ける設計がされ、関門海峡を迂回する避難対応ルートが最初に採用されました[参照]
一方、日豊本線は地元沿線のアクセス重視で、直線性よりも接続駅重視の設計が優先された歴史があります。
線形の違いがもたらす現在の姿
- 海岸沿いルートに比べて地形のアップダウンが厳しく、スピード面では不利。
- 複線化時に直線化が進んだ区間もあるが、完全直線化は経済性の観点から見送られた。
- その結果、一部内陸部で迂回する歴史的な線形が現在も残っています。
まとめ:歴史と地形が線路ルートを形作った
日豊本線が鹿児島本線のように直線的でないのは、明治期の建設時に地域アクセスや地形、施設・基地の存在が優先されたためです。
また、後の複線化や直線化工事でも、建設コストや地域の利用実態が重視され、完全直線ルートへの変更より現ルート維持が選ばれた結果とも言えます。

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