夏の風物詩として知られる隅田川花火大会。その歴史をさかのぼると、江戸時代中期にさかのぼります。この記事では、花火大会の始まりとされる享保18年(1733年)の背景、当時の人々の暮らし、そして誰が花火を楽しめたのかを解説します。
隅田川花火大会の始まりは享保18年(1733年)
隅田川花火大会の起源は、1733年(享保18年)に第8代将軍・徳川吉宗が行った「水神祭」とされています。この年、全国的に享保の大飢饉が発生し、加えて疫病も流行して多くの人々が命を落としました。
こうした背景のなか、徳川吉宗は慰霊と悪疫退散を目的に、隅田川で水神祭を催し、その際に花火が打ち上げられたと伝えられています。この行事は「両国川開き」として毎年の恒例行事となり、現在の隅田川花火大会の原点となりました。
江戸時代の花火と庶民文化の発展
江戸時代の町人文化が成熟していくなか、花火は大衆娯楽のひとつとして定着しました。当時の花火は「仕掛け花火」よりも「打ち上げ花火」が主流で、夜空を彩る鮮やかな光は、江戸庶民の心をつかみました。
江戸の花火といえば、名人と呼ばれた鍵屋・玉屋の競演が有名です。彼らは隅田川の両岸に分かれて花火を打ち上げ、人々は「たまやー!」「かぎやー!」と声援を送ったといわれています。
当時の観客層:武士、町人、商人、そして無宿人も?
花火大会が行われた両国橋周辺は、江戸でも屈指の繁華街であり、橋の上や河岸には見物客が集まりました。基本的には誰でも自由に観覧することができ、武士から町人、商人、職人、旅人まで多種多様な人々が足を運びました。
一説には、身分を問わず花火を楽しめる唯一のイベントとも言われており、無宿人(定職・住居を持たない人)までもが人混みに紛れて鑑賞していた可能性もあります。もちろん、桟敷席(有料の特等席)は金銭的に余裕のある者に限られていましたが、土手や橋の上など無料で見られる場所も多数存在しました。
享保の改革と花火大会の社会的意味
徳川吉宗が行った「享保の改革」は、質素倹約を掲げる一方で、庶民の娯楽や公衆衛生にも配慮した政策が多く、花火の活用もその一環でした。
実際、花火による疫病退散の祈願は、火薬の音や光によって邪気を祓うという当時の風習に基づいており、ただの娯楽ではなく、宗教的・社会的な意義を持った行事でもありました。
現在へと続く花火大会の文化的継承
明治期に入り、一時中断された時期もありましたが、昭和時代に「隅田川花火大会」として再開され、現在では約100万人以上が訪れる一大イベントに成長しました。
江戸時代の精神を受け継ぎ、慰霊と祈りを込めた行事として、そして夏を彩る風物詩として、その伝統は今も続いています。
まとめ:300年近い歴史に想いを馳せて
隅田川花火大会は単なる夏のレジャーではなく、江戸時代から続く文化的・歴史的価値の高い行事です。
- 起源は1733年の水神祭と慰霊・疫病退散の祈願
- 町人・庶民・武士・旅人まで誰でも楽しめる行事だった
- 社会の安寧と人々の心の癒しを目的に始まった
歴史に思いを馳せながら花火を眺めることで、より深い感動が得られるはずです。


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