1999年ごろから全国で本格化した「平成の大合併」では、多くの市町村が統合され、日本全国の市町村数は大幅に減少しました。ところが大阪府を見ると、市町村の枠組みはほとんど変化していません。実際に成立したのは、2005年2月1日の美原町と堺市の合併が代表的な事例です。
ただし、大阪府で合併の動きそのものがなかったわけではありません。守口市・門真市、岸和田市・忠岡町、泉佐野市・泉南市・阪南市・田尻町・岬町など、複数の地域で具体的な合併協議が行われました。それでも実現しなかった背景には、住民投票による反対、既存自治体の行政基盤、都市部特有の事情、合併以外の広域連携という選択肢などがあります。
そもそも「平成の大合併」とは何だったのか
平成の大合併は、人口減少や少子高齢化への対応、地方分権を担える自治体の行財政基盤の強化などを目的として、国が市町村合併を積極的に後押しした一連の動きを指します。大阪府によると、全国の市町村数は3,229から1,727へと大幅に減少しました。
一方、大阪府と東京都は全国でも特に合併件数が少ない地域でした。大阪府の公式資料でも、この期間の大阪における合併は1件だけだったことが説明されています。つまり、大阪で市町村の形があまり変わらなかったこと自体が、全国的に見るとかなり特徴的だったのです。[参照:大阪府 市町村合併]
ここで重要なのは、国が合併を推進したからといって、自動的に隣接自治体が統合されたわけではないことです。市町村合併には自治体間の協議に加え、議会や住民の理解が不可欠であり、地域によって結論は大きく異なりました。
大阪でも実は複数の合併計画が進んでいた
現在の大阪府の自治体地図だけを見ると「大阪では合併の話がほとんどなかった」と感じるかもしれません。しかし平成の大合併の時期には、かなり具体的な協議まで進んだ地域があります。
大阪府の資料には、当時の法定合併協議会として「富田林市・太子町・河南町・千早赤阪村」「守口市・門真市」「堺市・美原町」「岸和田市・忠岡町」「泉州南」の各合併協議会が設置されていたことが記録されています。
| 主な組み合わせ | 結果 |
|---|---|
| 堺市・美原町 | 合併成立 |
| 守口市・門真市 | 合併せず |
| 岸和田市・忠岡町 | 合併せず |
| 泉佐野市・泉南市・阪南市・田尻町・岬町 | 合併せず |
| 富田林市・太子町・河南町・千早赤阪村 | 合併せず |
つまり、現在も忠岡町や田尻町などが単独自治体として存在しているのは、単に合併の対象にならなかったからではありません。実際に合併が検討されながら、最終的に成立しなかった地域もあるという点がポイントです。
忠岡町は岸和田市との合併が検討されたが住民が反対した
大阪府で特徴的な事例の一つが、岸和田市と忠岡町です。両自治体には合併協議会が設置され、合併後のまちづくりや財政計画などについて具体的な協議が行われていました。
しかし、忠岡町では2004年に岸和田市との合併の是非を問う住民投票が行われ、反対が多数となりました。忠岡町議会の後年の会議録でも、当時の住民投票について「反対派が上回った」ことが確認できます。岸和田市側でもその後、合併協議会を廃止しています。[参照:岸和田市議会]
この事例から分かるのは、自治体の規模が小さいからといって、必ず大きな隣接市へ編入されるわけではないということです。行政効率や財政だけでなく、自治体としての独立性、住民サービス、地域への帰属意識なども住民の判断材料になります。
田尻町や阪南市を含む「泉州南」の大型合併構想もあった
泉州南部ではさらに大規模な合併構想がありました。泉佐野市、泉南市、阪南市、田尻町、岬町の3市2町による「泉州南合併協議会」が2003年11月に設置され、合併について具体的な協議が進められました。
ところが2004年8月22日に住民投票が行われ、泉南市・阪南市・田尻町で反対多数となりました。その結果、これらの自治体が協議会から離脱し、泉州南合併協議会は同年9月30日に解散しています。これは泉南市の公式サイトにも経緯が残されています。[参照:泉南市 泉州南合併協議会]
したがって、田尻町や阪南市などが現在も独立しているのは、合併構想から取り残された結果ではありません。むしろ実際に住民へ意思を問い、その結果として現在の自治体の枠組みが維持されたという歴史があります。
守口市と門真市も住民投票を経て合併を断念している
大阪府北東部でも守口市と門真市による合併構想がありました。2003年には両市による合併協議会が設置され、具体的な検討が進められています。
しかし2004年に合併の是非を問う住民投票が行われ、門真市では投票率が成立要件を満たさず、守口市では反対が圧倒的多数となりました。門真市の公式な市制の歩みにも、この結果を受けて合併を断念したことが記録されています。[参照:門真市 60年の歩み]
平成の大合併では「財政的に合併したほうが得か」という行政側の計算だけでなく、「自分たちの市を残したい」「合併後の行政サービスがどうなるのか」といった住民側の判断が大きな意味を持っていました。大阪では、この住民意思が合併を止めたケースが複数あったわけです。
なぜ大阪では全国ほど合併の必要性が強くなかったのか
大阪で合併が少なかった理由を一つだけに絞ることはできません。ただ、都市化が進んだ大阪では、全国の過疎地域とは自治体を取り巻く条件がかなり異なっていました。
地方部では、人口が少ない町村同士が合併して職員・財源・公共施設などを集約することに大きな意味があるケースがあります。一方、大阪府内は比較的人口密度が高く、小さな面積の自治体でも都市として行政機能を持っているケースが少なくありません。そのため「小さい自治体だから直ちに単独運営できない」とは限りません。
また、自治体そのものを廃止・統合しなくても、特定の行政サービスだけ共同化する方法があります。現在の大阪でも消防、水道、福祉、ごみ処理、観光、公共交通などさまざまな分野で市町村間の広域連携が行われています。泉南市も、泉佐野市・阪南市・熊取町・田尻町・岬町などとの広域福祉や消防などの連携を行っています。[参照:泉南市 広域連携]
つまり、自治体を合併しなくても、規模のメリットが必要な事業だけ近隣自治体と共同運営するという選択肢があります。火葬場など特定施設を自前で持っているかどうかだけで、自治体合併の必要性が決まるわけでもありません。
では、なぜ美原町と堺市だけは合併できたのか
大阪府で実際に成立したのが堺市と美原町の合併です。両自治体は法定合併協議会で協議を進め、2005年2月1日、美原町を堺市へ編入する方式で合併しました。[参照:堺市・美原町合併協議会]
さらに堺市には以前から政令指定都市への移行を目指す動きがありました。堺市の公式記録を見ると、1993年に市議会が政令指定都市移行に関する要望決議を行い、2003年に美原町との法定合併協議会を設置、2005年2月に合併、そして2006年4月1日に政令指定都市へ移行しています。[参照:堺市 政令指定都市への歩み]
このため、美原町との合併は単に「小さな町を隣の大都市が吸収した」という一面だけで理解するより、堺市の大都市制度への移行という当時の政策的な流れも含めて見る必要があります。合併協定では、美原町の区域を堺市へ編入すること、名称を堺市とすることなどが正式に決められました。
小さな町が残っていることと行政サービスの共同化は矛盾しない
忠岡町や田尻町のように面積や人口規模の小さい自治体が現在まで残っていると、「単独で公共サービスを全部運営しているのだろうか」と疑問に感じることがあります。しかし地方自治では、自治体の区域を維持したまま近隣市町村と一部の行政事務を共同処理できます。
例えば水道、消防、ごみ処理、福祉、病院など、規模が大きいほど効率化しやすい分野についてだけ共同化し、市役所・町役場や議会、住民サービスの多くはそれぞれの自治体が維持するという形が可能です。
この仕組みがあるため、「効率化したいなら市町村そのものを合併するしかない」という二者択一ではありません。平成の大合併後は、人口減少への対応策としても、自治体合併だけでなく広域連携や事務の共同化が重要な選択肢になっています。
まとめ:大阪で平成の大合併が少なかったのは「合併話がなかったから」ではない
平成の大合併で大阪府の自治体がほとんど変わらなかったのは、単純に大阪府や各市町村が合併に消極的だったからとは言い切れません。実際には府内各地で法定合併協議会が設置され、かなり具体的なところまで話が進んでいました。
その中で堺市と美原町は合併に至りましたが、守口市・門真市、岸和田市・忠岡町、泉州南地域などでは、住民投票をはじめとする意思決定の結果、合併が実現しませんでした。特に忠岡町、田尻町、阪南市などについては、合併が検討されなかったのではなく、検討したうえで現在の自治体の形が残ったという経緯を押さえることが重要です。
さらに大阪のような都市部では、自治体を統合しなくても行政サービスを広域連携によって共同化できる場合があります。現在の大阪府の市町村地図は、平成の大合併の波が届かなかった結果というより、合併協議、住民判断、自治体の自立、広域連携といった複数の選択が積み重なった結果と見ると理解しやすいでしょう。


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