かつて徳島県を走っていた小松島線(中田〜小松島港)は、南海フェリーと連携し、和歌山港との交通の要所として機能していました。しかし、1981年には第一次特定地方交通線として廃止対象に指定され、1985年には実際に廃止されました。この路線がなぜ“特定地方交通線”となったのか、その背景を交通政策と地域事情の両面から紐解きます。
特定地方交通線とは何か?
特定地方交通線とは、1980年の国鉄再建法に基づき、利用者数が少なく赤字が著しい路線を対象に廃止・転換を促進する政策でした。第一次指定では、1981年に全国65路線が対象となり、その中に小松島線も含まれていました。
対象となる基準は、「1日あたりの平均通過人員(旅客輸送密度)が4,000人未満」などで、当時の小松島線の利用状況はこの基準を大きく下回っていたとされています。
小松島線の機能と役割
小松島線は戦前から存在する短距離ローカル線で、南海フェリーとの接続によって本州と四国を結ぶ重要なルートでもありました。特急・急行の発着があり、一定の需要は存在していたものの、それはフェリーとの接続目的に限られ、沿線人口や通勤・通学需要は限定的でした。
当時、並行して存在していた国道や路線バスの利便性向上により、鉄道離れが進んでいたことも要因の一つです。
南海フェリーとの連携は廃止回避にならなかったのか
確かに、南海フェリーとの接続という視点で見れば小松島線は戦略的価値があるように見えます。しかし、1975年に宇高連絡船が列車接続を強化し、鉄道経由で四国に入るルートの主流が変化したことで、小松島ルートは次第に陳腐化しました。
また、フェリーと鉄道の接続が魅力的だった時代は1970年代までであり、1980年代に入るとマイカーと高速道路網の整備によって、旅客需要が急速に低下しました。
本当に第一次指定の条件に該当したのか?
小松島線は、1980年時点で旅客輸送密度が1,000人/日を下回っていたとされ、指定基準を大きく下回っていました。たとえ接続する交通機関があっても、実質的な利用者が少なければ廃止対象となるのは避けられません。
鉄道単体では黒字でも、路線の維持や設備更新費用、人件費を含めたトータルコストでは赤字が避けられず、運営の合理化が求められたのです。
現在の視点から見る小松島線の価値
廃止から数十年が経過した今、小松島線は廃線跡として一部が遊歩道や道路として再利用されています。小松島市の公式観光情報でもその名残をたどることが可能です。
鉄道ファンの間では、当時の駅舎や路線跡を訪れる「廃線探訪」も人気で、鉄道史を学ぶ上で小松島線の存在は貴重な資料的価値を持っています。
まとめ:フェリー接続があっても避けられなかった廃止
小松島線は確かに戦略的な接続路線ではありましたが、それ以上に“定常的な利用者の少なさ”が影響し、第一次特定地方交通線として指定されました。接続性よりも定量的なデータが重視される交通政策の実態がよく表れた事例と言えるでしょう。
今後も鉄道の持続可能性を考える上で、小松島線のような事例から学べることは多いはずです。


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