大岡昇平の小説『青春』には、「古風な網附電車が低い家並から現れてのろのろと向うの橋を渡る」という一節が登場します。文学の中に描かれたこの「網附電車(あみつきでんしゃ)」とは何か。現代ではあまり聞き慣れないこの言葉の背景を探ることで、作品の舞台となる都市風景がよりリアルに浮かび上がります。
「網附電車」とは何を指すのか?
「網附電車」とは、昭和初期に見られた路面電車の一種で、電車の窓部分に防護用の金網や鉄製の格子が付いていたことからそう呼ばれていました。特に関東大震災後の復興期から戦時中にかけて、落下物やガラスの飛散から乗客を守るために採用されたデザインです。
現代のようなエアコン完備の電車とは違い、木造車体の路面電車には夏場の防虫、冬場の風除け、また治安対策としても金網が活躍していた時代がありました。
大岡昇平が描いた風景と時代背景
この描写が登場する『青春』は、大岡自身の学生時代を元にした作品であり、昭和初期の東京郊外が舞台です。特に小田急線や玉電(玉川電気鉄道)といった、当時の郊外私鉄の雰囲気を反映していると考えられています。
「のろのろと橋を渡る」とある通り、速度も現代の電車とは違い非常にゆっくりで、車体も重々しく、都市の喧騒に対してどこか牧歌的な存在でした。
なぜ「網」が特徴として強調されたのか
当時の電車の特徴として、「網」が取り上げられるのは珍しくありません。特に文学作品では、こうしたディテールがノスタルジーや生活感の演出として機能しています。
戦前・戦中の日本では、車両の窓ガラスが物資不足で壊れたまま運行されることも多く、代わりに金網を張って安全を保っていました。つまり「網附」は一種の“代用品文化”の象徴でもあったのです。
他の作品にも登場する「網附電車」
同様の「網附」や「金網電車」の描写は、昭和期の他の小説や随筆にも散見されます。たとえば井伏鱒二の作品にも、戦後復興期の鉄道描写で同様の言及があります。
このことからも、大岡昇平の描写は単なる個人的な記憶というより、時代を共有する風俗の記録として価値があると言えるでしょう。
まとめ:文学表現に宿る都市の記憶
「網附電車」は、単なる電車の描写ではなく、大岡昇平が生きた昭和初期の都市風景と生活感を象徴する存在です。
金網に覆われたその車両は、安全・防犯のための実用性とともに、戦前〜戦中の都市社会の不安定さをも映し出しています。作品に描かれる「のろのろと橋を渡る」その姿には、どこか物悲しさと郷愁が漂っているのです。


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