スウェーデンに暮らす南米出身者を見ると、チリ出身者が比較的多く、人口規模の小さいウルグアイも存在感があります。南米から北欧のスウェーデンまでは非常に遠いため、「なぜブラジルやアルゼンチンだけでなく、チリやウルグアイから多くの人が移住したのか」と疑問に感じるかもしれません。
その背景を理解する最大の鍵は、現在の就労移民よりも1970年代以降の政治亡命・難民受け入れにあります。1973年にはチリとウルグアイの双方で軍事独裁体制が成立し、政治活動家、労働運動関係者、知識人などが迫害を受け、多数の人々が国外へ逃れました。
当時のスウェーデンは政治難民を積極的に受け入れる国の一つであり、南米の軍事政権に批判的な世論や市民運動も強くありました。最初に難民として定住した人々が家族や知人を呼び、その後にコミュニティーが形成されたことで、移民の流れが長期的に残ったのです。
この記事では、チリとウルグアイからスウェーデンへの移住が増えた歴史的背景、1973年の軍事政変、スウェーデンの難民政策、外交官ハラルド・エーデルスタムの役割、その後の家族移住まで順番に解説します。
- 現在もスウェーデンにはチリ出身者が多い
- 最大の転機は1973年のチリ軍事クーデター
- ウルグアイでも1973年に軍事独裁体制が成立した
- スウェーデンは南米の政治難民を積極的に受け入れた
- チリではスウェーデン外交官ハラルド・エーデルスタムの存在も大きかった
- なぜ地理的に近いスペインではなくスウェーデンだったのか
- 最初の難民が定住すると「連鎖移住」が起こる
- チリ出身者が特に多いのは軍政が長期間続いたことも関係する
- ウルグアイは人口が少ないため移民数以上に存在感がある
- アルゼンチンなど他の南米諸国からも政治難民は来ている
- 経済移民というより「政治難民から始まったコミュニティー」
- スウェーデンの福祉国家としての制度も定住を後押しした
- 現在の移民数だけを見ると歴史的背景を見落としやすい
- チリとウルグアイの共通点を整理
- まとめ|チリ・ウルグアイからの移民が目立つ最大の理由は1970年代の政治亡命
現在もスウェーデンにはチリ出身者が多い
スウェーデン統計局(Statistics Sweden/SCB)の人口統計を見ると、チリ生まれの住民は現在でも南米出身者の中で大きな集団の一つです。2024年末の統計では、スウェーデンに暮らすチリ生まれの人は約2万7,000人でした。
これは同じ南米のブラジルやコロンビア出身者と比較してもかなり大きな規模です。しかも統計上の「チリ生まれ」には、スウェーデンで生まれたチリ系2世・3世は含まれないため、チリにルーツを持つ人口はさらに多くなります。
ウルグアイ出身者はチリほど多くありません。しかしウルグアイ自体の人口が約300万人台と小さいことを考えると、スウェーデンに形成されたウルグアイ系コミュニティーは歴史的に目立つ存在です。
[参照] Statistics Sweden「Population statistics」
最大の転機は1973年のチリ軍事クーデター
チリからスウェーデンへの大規模な移住を理解するうえで、1973年9月11日の軍事クーデターは避けて通れません。
民主的な選挙によって成立していたサルバドール・アジェンデ政権が軍事クーデターによって崩壊し、アウグスト・ピノチェトを中心とする軍事政権が成立しました。その後、左派政党関係者、労働組合員、学生、知識人などへの逮捕、拷問、殺害、強制失踪が広がりました。
生命の危険を感じた多数のチリ人が国外へ亡命し、ヨーロッパ諸国の中でもスウェーデンは主要な受け入れ先の一つになりました。
スウェーデンの研究資料でも、1973年以降に多数のチリ難民がスウェーデンへ移住し、その後も軍事政権が続いた1980年代まで複数の波となって移住が継続したことが確認されています。
[参照] Linnaeus University「Chilean refugees in Sweden after 1973」
ウルグアイでも1973年に軍事独裁体制が成立した
興味深いことに、ウルグアイでもチリと同じ1973年に政治体制が大きく変化しました。
ウルグアイでは1973年6月に議会が解散され、その後1985年まで続く軍民独裁体制へ移行します。反政府活動家、左派勢力、労働運動関係者などへの弾圧が強まり、多数の政治犯が生まれました。
人口に対する政治犯の割合が非常に高かった国としても知られ、拷問や長期拘禁から逃れるため、多くのウルグアイ人がアルゼンチン、ヨーロッパなどへ亡命しました。その受け入れ先の一つがスウェーデンでした。
1978年のスウェーデン議会記録にも、ウルグアイの政治的迫害やスウェーデン国内のウルグアイ難民組織についての議論が残っています。つまりウルグアイ難民の存在は、一部の個人移住ではなく、当時のスウェーデン社会でも認識される規模の政治問題だったことが分かります。
[参照] スウェーデン議会 1977/78年度議事録「ウルグアイで政治的迫害を受ける人々への支援」
スウェーデンは南米の政治難民を積極的に受け入れた
チリやウルグアイから逃れた人々が世界中に均等に移住したわけではありません。受け入れ国によって難民政策や政治姿勢が違ったためです。
1970年代のスウェーデンは、人道主義や国際連帯を外交政策の重要な要素として掲げ、軍事独裁や植民地主義、人種差別政策などに批判的な立場を取ることが多い国でした。
当時のスウェーデンでは南米の左派・民主化運動への関心も高く、政治難民を受け入れる社会的・政治的な基盤がありました。そのため、チリだけでなくアルゼンチンやウルグアイなど軍事独裁下にあった南米諸国からも難民が移住しました。
1998年にスウェーデンの医学誌Läkartidningenが掲載した移民史の整理では、1970年代の南米軍事独裁政権を背景として、およそ2万5,000人のチリ人と約1万人のその他のラテンアメリカ人、特にアルゼンチン人・ウルグアイ人がスウェーデンへ政治亡命を求めたと説明されています。
[参照] Läkartidningen「スウェーデン移民の歴史的・国際的背景」
チリではスウェーデン外交官ハラルド・エーデルスタムの存在も大きかった
チリとスウェーデンの関係を語る際によく登場する人物が、当時スウェーデン大使だったハラルド・エーデルスタムです。
1973年のクーデター後、エーデルスタムは迫害を受けていたチリ人だけでなく、チリに滞在していたウルグアイ人など外国人の保護にも関わりました。スウェーデン大使館などを通じて避難を支援し、軍事政権から命を狙われていた人々を救出したことで知られています。
この行動によってスウェーデンは、南米の政治亡命者にとって単なる遠い北欧国家ではなく、「実際に保護してくれる国」として認識されるようになりました。
特にチリにはウルグアイやブラジルなど周辺諸国の政治亡命者も滞在していたため、1973年のクーデターはチリ国民だけでなく南米各国の亡命者にも影響しました。こうした人々の一部もスウェーデンへ渡っています。
なぜ地理的に近いスペインではなくスウェーデンだったのか
スペイン語圏のチリ人やウルグアイ人なら、言語が同じスペインへ移住するほうが自然に見えるかもしれません。しかし1970年代前半のスペインは現在とは状況が大きく異なります。
スペインではフランシスコ・フランコによる権威主義体制が1975年まで続いていました。そのため、南米の左派政治家や活動家にとって、当時のスペインが必ずしも理想的な亡命先だったわけではありません。
一方のスウェーデンには安定した民主主義、社会保障制度、難民受け入れ政策があり、南米の軍事政権に対する強い批判もありました。言葉や気候の壁があったとしても、安全性という面では魅力のある亡命先だったのです。
最初の難民が定住すると「連鎖移住」が起こる
移民の流れを考えるときに重要なのが「連鎖移住」です。ある国に最初の移民コミュニティーができると、同じ出身国の人が後から移住しやすくなります。
例えば1970年代にチリ人の政治難民がストックホルムやヨーテボリなどへ定住すると、その後に配偶者、子ども、親族などが合流します。さらに既に住んでいる知人から住居、仕事、行政手続きについて情報を得られるため、新たな移住者にとってもスウェーデンを選びやすくなります。
これは政治状況が安定した後にも続きます。最初は難民として形成されたコミュニティーが、その後は家族移住、結婚、就労、留学など別の理由による移住を支えるネットワークへ変化するためです。
ウルグアイ系コミュニティーについても同様で、ストックホルム、ヨーテボリ、マルメなどに移民組織や文化的ネットワークが形成されました。
チリ出身者が特に多いのは軍政が長期間続いたことも関係する
チリのピノチェト軍事政権は1973年から1990年まで約17年間続きました。そのため、クーデター直後だけでなく、その後も長期間にわたって亡命・移住が発生しました。
初期には直接的な政治迫害から逃れる人が中心でしたが、1980年代には政治状況や経済状況など複数の要因による移住が続きました。
スウェーデンへのチリ移民も一度の大規模移住で終わったのではなく、1970年代から1980年代にかけて複数の波として続きました。その結果、現在まで残る大規模なチリ系社会が形成されました。
1970年代の第一世代の子どもたちはスウェーデンで成長し、その次の世代も誕生しています。このため、現在の統計で「チリ生まれ」だけを数えるより、チリ系住民全体はさらに大きなコミュニティーになります。
ウルグアイは人口が少ないため移民数以上に存在感がある
ウルグアイについては、絶対数だけを見るとチリほど大規模ではありません。その点は区別する必要があります。
しかしウルグアイはもともとの人口が非常に少ない国です。1970年代の独裁体制下では人口の相当部分が国外へ移住したとされ、国の人口規模に対する亡命者の割合は大きなものでした。
そのためスウェーデンに数千人規模のウルグアイ系住民が形成されるだけでも、母国人口との比率で見るとかなり特徴的な移民関係になります。
「スウェーデンにはウルグアイ人が目立つ」という印象は、ブラジルのように人口2億人超の大国と同じ絶対数で比較するより、ウルグアイの人口規模を考慮したほうが理解しやすいでしょう。
アルゼンチンなど他の南米諸国からも政治難民は来ている
スウェーデンに南米出身者が多い理由をチリとウルグアイだけの特殊な関係として理解するのも正確ではありません。
1970年代から1980年代にかけて南米では、アルゼンチン、ブラジル、ボリビアなど複数の国で軍事政権や政治的弾圧が起こりました。スウェーデンはこれらの国からも政治難民を受け入れています。
特にアルゼンチンでは1976年から1983年まで軍事政権が続き、「汚い戦争」と呼ばれる国家弾圧によって多数の人々が殺害・強制失踪しました。この時期にもアルゼンチン人がスウェーデンへ亡命しています。
したがってスウェーデンのチリ・ウルグアイ系コミュニティーは、より大きな「1970年代南米からスウェーデンへの政治亡命」という歴史の一部として捉えると分かりやすくなります。
経済移民というより「政治難民から始まったコミュニティー」
現代の国際移住については、賃金の高い国へ仕事を求めて移住する「経済移民」をイメージすることが多いでしょう。しかしチリ・ウルグアイからスウェーデンへの歴史的な流れは、それだけでは説明できません。
1970年代に移住した第一世代の多くにとって、スウェーデンを選んだ最大の理由は安全でした。北欧の生活への憧れから最初からスウェーデンを目指したというより、政治的迫害を逃れ、難民を受け入れてくれる国へ移動したケースが重要だったのです。
その後、スウェーデンで生活基盤を築き、子どもが学校へ通い、仕事や社会的ネットワークができると、母国の民主化後もそのままスウェーデンへ残る人が多くなりました。
一部はチリやウルグアイへ帰国しましたが、数十年間生活したスウェーデンを新しい故郷として選んだ人々も少なくありません。
スウェーデンの福祉国家としての制度も定住を後押しした
難民の受け入れ後に定住が進んだ背景には、スウェーデンの社会制度もあります。
住居、医療、教育、言語教育など、新しい社会へ定着するための制度が整備されていたため、家族を伴って長期間暮らしやすい環境がありました。
特に子どもがスウェーデン語で教育を受け、現地社会で就職するようになると、親世代にとっても民主化後に家族全員で南米へ帰国することは簡単ではなくなります。
こうして「一時的な亡命」の予定だった家族が長期定住へ移行し、現在のチリ系・ウルグアイ系スウェーデン人社会につながりました。
現在の移民数だけを見ると歴史的背景を見落としやすい
現在の人口統計だけを見ると、「なぜ遠い南米の国から北欧へこれほど移住したのか」と不思議に見えます。
しかし移民人口は、現在の所得差や航空路線だけで決まるものではありません。数十年前の戦争、クーデター、難民政策、外交関係などが現在の人口構成へ長期間影響します。
例えばある国で1980年に1万人規模のコミュニティーが形成されれば、その後に子ども・孫が生まれ、親族移住も続きます。最初の移民が発生した理由がなくなってもコミュニティー自体は残ります。
チリ・ウルグアイとスウェーデンの関係は、この「歴史が現在の移民地図を作る」典型例の一つです。
チリとウルグアイの共通点を整理
| 要素 | チリ | ウルグアイ |
|---|---|---|
| 大きな政治転換 | 1973年軍事クーデター | 1973年軍民独裁体制へ移行 |
| 独裁体制の期間 | 1973〜1990年 | 1973〜1985年 |
| 移住の主要な背景 | 政治迫害・亡命 | 政治迫害・亡命 |
| スウェーデンとの関係 | 多数の難民を受け入れ | 政治難民の重要な受け入れ先 |
| その後 | 大規模なチリ系コミュニティー形成 | 人口規模に対して目立つコミュニティー形成 |
両国の共通点は、偶然にも同じ1973年に権威主義体制が本格化したことです。そしてスウェーデンが両国から逃れてきた政治亡命者の受け入れ先になりました。
この歴史的な一致が、現在でもスウェーデンとチリ・ウルグアイの人的つながりが強い理由の一つです。
まとめ|チリ・ウルグアイからの移民が目立つ最大の理由は1970年代の政治亡命
スウェーデンにチリ・ウルグアイ出身者が比較的多い理由は、地理的な近さや現在の経済関係ではなく、1970年代の南米軍事独裁とスウェーデンの政治難民受け入れの歴史にあります。
チリでは1973年9月の軍事クーデターによってピノチェト軍事政権が成立し、多数の政治活動家、労働運動関係者、知識人などが国外へ逃れました。スウェーデンは主要な亡命先の一つとなり、その後約17年間続いた軍政の間にも移住が続きました。
ウルグアイでも1973年から1985年まで軍民独裁体制が続き、大規模な政治的弾圧によって多数の国民が亡命しました。スウェーデン議会の当時の記録にもウルグアイの政治犯や国内に暮らすウルグアイ難民への言及があり、スウェーデンが重要な避難先だったことが確認できます。
つまり「チリ人やウルグアイ人がスウェーデンを好んで経済移民として大量に選んだ」というより、「軍事独裁から逃れた政治難民をスウェーデンが受け入れ、その後に家族・親族・コミュニティーが定着した」と理解するほうが実態に近いでしょう。
また当時のスウェーデンは南米の軍事政権に批判的で、人道主義的な難民政策や国際連帯運動が強い国でした。チリのクーデター時にはスウェーデン大使ハラルド・エーデルスタムがチリ人やウルグアイ人などの保護に関わったことも、両地域の歴史的なつながりを象徴しています。
最初の難民がスウェーデンへ定住すると、その後は家族呼び寄せや結婚などによる連鎖移住が進みました。子どもや孫の世代もスウェーデン社会で生活するようになり、軍事政権が終わって何十年経った現在でもコミュニティーが残っています。
なお絶対数ではチリ系住民のほうがウルグアイ系住民よりかなり多いため、両者が同規模というわけではありません。ウルグアイの場合は母国人口が小さいことを考えると、スウェーデンとの人的な結び付きが目立つという理解がより正確です。
南米出身者の現在の分布を理解するには、今日の経済状況だけを見るのではなく、半世紀前の政治史を見る必要があります。スウェーデンのチリ・ウルグアイ系社会は、まさに1970年代の軍事独裁、難民政策、外交、そしてその後の連鎖移住が現在まで残した歴史的な結果といえます。
[参照] Statistics Sweden「Population statistics」
[参照] Linnaeus University「Chilean refugees in Sweden after 1973」
[参照] スウェーデン議会「ウルグアイで政治的迫害を受ける人々への支援」
[参照] Läkartidningen「スウェーデン移民の歴史的・国際的背景」

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