広島市に本格的な地下鉄がない理由として、「太田川デルタの地盤が軟弱だから地下鉄を造れなかった」という説明を耳にすることがあります。しかし、これは一部の事実を単純化しすぎた説明です。広島中心部の地盤が軟弱で地下水位も高く、地下構造物の建設コストや施工難度を押し上げる要因だったことは事実です。一方で、広島では1960年代末から1970年代にかけて本格的な地下鉄計画が実際に検討され、後にはアストラムラインの都心部地下区間や紙屋町地下街なども建設されています。したがって「地盤のせいで技術的に地下鉄建設が不可能だった」という理解は正確ではありません。実現しなかった背景には、巨額の建設費、国鉄・広島電鉄との直通を含む複雑な計画、1970年代の経済環境の変化、市民の反対、そしてより現実的な新交通システムへの政策転換など、複数の要因が重なっていました。
- 「広島は地盤が緩いから地下鉄を造れない」は正確ではない
- 実際に広島には地下鉄を建設する具体的な計画が存在した
- 1970年代の計画は単純な「市内地下鉄」ではなく巨大な直通ネットワークだった
- 地盤だけが原因ならアストラムラインの地下区間も成立しない
- 地下鉄が頓挫した大きな要因の一つは事業規模と建設費だった
- 1973年のオイルショックも地下鉄計画に大きな逆風となった
- 「行政が最初から消極的だった」という説明も少し違う
- 市民の反対は地下鉄計画に影響したのか
- 広島電鉄を守るために地下鉄を造らなかったのか
- 地下鉄計画が進まない間に広島電鉄が路面電車を立て直した
- その後の広島は地下鉄ではなく新交通システムを選択した
- 現在の広島は「路面電車を優遇」ではなく複数交通機関を組み合わせる政策
- 福岡や仙台に地下鉄があって広島にない理由は都市規模だけでは説明できない
- 地盤・採算・広電のどれか一つを原因にするのは無理がある
- まとめ:広島に地下鉄がない理由を「軟弱地盤」だけで説明するのは俗説に近い
「広島は地盤が緩いから地下鉄を造れない」は正確ではない
広島中心部の多くは太田川が形成した三角州、いわゆるデルタ地帯に位置しています。このため地盤には軟弱な粘土層などが分布し、地下水位も高い場所があります。
国土交通省中国地方整備局の広島国道事務所は、紙屋町地下街・地下駐車場の建設地について、太田川三角州のほぼ中央にあり、軟弱な粘土層からなる堆積層が分布し、地下水位も地表から約1.5mと高いと説明しています。そのうえで地下水の影響を防ぐため地盤改良などを行って施工したとしています。[参照]
つまり、広島の地盤条件が地下工事に不利なのは事実ですが、意味するところは「造れない」ではなく、「造るには地盤対策が必要で、その分コストや工事難度が上がりやすい」ということです。
実際に広島には地下鉄を建設する具体的な計画が存在した
「地盤が原因で最初から地下鉄を諦めていた」という説明と矛盾する最大の事実が、広島でかなり具体的な地下鉄計画が存在していたことです。
1960年代、高度経済成長によって自動車交通が増加し、広島市内では渋滞や公共交通の輸送力不足が深刻化しました。1967年から1970年にかけて大規模なパーソントリップ調査が実施され、その結果をもとに都市高速鉄道を含む総合交通計画が検討されています。
JR西日本が公開している広島駅の歴史資料でも、この時期の鉄道計画として、横川駅から紙屋町を経由して広島駅まで地下鉄を整備し、さらに西側では西広島方面へ延ばして広島電鉄宮島線と接続する構想が紹介されています。[参照]
1970年代の計画は単純な「市内地下鉄」ではなく巨大な直通ネットワークだった
当時検討されていた広島の地下鉄は、現在の仙台市地下鉄や福岡市地下鉄のように、市内だけで独立して走る路線を単純に建設する構想ではありませんでした。
広島都市交通研究会などが検討した計画では、市中心部を地下鉄として整備し、その先で国鉄可部線・芸備線・呉線や広島電鉄宮島線など既存路線へ直通することが想定されていました。
1970年代初めに具体化した案では、横川・広島駅方面を結ぶ「鯉城線」と、西広島・紙屋町・広島駅方面などを結ぶ「東西線」という大規模なネットワークが構想されていました。JR西日本も、国鉄と広島電鉄では線路幅が異なることなど、多数の技術的課題があったと紹介しています。[参照]
そのため計画の難しさは「広島の地下を掘れるか」という一点ではなく、地下鉄建設と既存鉄道の大規模改良を同時に成立させなければならないことにもありました。
地盤だけが原因ならアストラムラインの地下区間も成立しない
現在のアストラムラインは大半が高架ですが、都心側には実際に地下区間があります。広島市の都市計画資料では、広島新交通1号線について紙屋町から基町付近などに地下式の区間が正式に設定されています。[参照]
さらに広島中心部には紙屋町地下街「シャレオ」や地下駐車場など大規模な地下構造物も存在します。
この事実からも、「広島のデルタ地盤では地下構造物そのものを建設できない」という説は成立しません。技術的には建設可能ですが、地盤改良、地下水対策、工事費などで条件が厳しくなる、という理解が適切です。
地下鉄が頓挫した大きな要因の一つは事業規模と建設費だった
地下鉄は一般に、高架鉄道や路面電車より建設費が高くなります。特に広島では軟弱地盤対策が必要なうえ、川が多く、地下鉄だけでなく接続する既存鉄道路線の改良まで計画されていました。
当時の広島都市高速鉄道計画は、地下鉄部分だけでも非常に大規模な公共投資を必要とするものでした。しかも既存の国鉄線を複線化・高架化・電化したり、広電宮島線との直通に対応したりする構想まで含まれていました。
したがって「採算性や財政負担が問題だった」という見方には相当な根拠があります。ただし、単純に「市役所が赤字を恐れて消極的だったからやめた」とだけ説明するのも十分ではありません。当時は市自身がかなり具体的な計画まで作っており、一時期は明確に地下鉄建設を目指していたからです。
1973年のオイルショックも地下鉄計画に大きな逆風となった
歴史的に重要なのが1973年の第一次オイルショックです。建設資材や人件費が上昇し、国・地方自治体とも大型公共事業の財政環境が厳しくなりました。
JR西日本の広島駅に関する歴史資料でも、地下鉄計画が実現しなかった背景として、多くの技術的課題とともに、1973年のオイルショックによる経済状況の変化を挙げています。[参照]
つまり広島地下鉄が検討された1960年代末から1970年代初めと、実際に巨額の建設費を投入して着工する段階とでは、経済環境が大きく変わってしまったのです。
「行政が最初から消極的だった」という説明も少し違う
地下鉄が実現しなかった結果だけを見ると、「広島市が慎重すぎて地下鉄を造らなかった」と評価したくなります。しかし歴史的経緯を見ると、少なくとも計画初期から行政が地下鉄に消極的だったとは言いにくいでしょう。
1960年代末から1970年代にかけて調査が行われ、「広島都市高速鉄道計画」として具体的な路線や既存鉄道との接続方法まで検討されました。単なるアイデアではなく、かなり本格的な都市交通政策でした。
一方で、実際の事業化段階では財政、技術、市民合意、既存事業者との調整など多くのハードルが積み重なりました。したがって、より正確には「行政が初めから地下鉄を拒否した」というより、「積極的に検討したものの、1970年代に事業成立の条件が崩れていった」と見る方が歴史に近いでしょう。
市民の反対は地下鉄計画に影響したのか
地下鉄計画については、市民や市民団体から反対意見があったことも複数の資料で伝えられています。特に既存の都市交通体系を大きく変更する計画だったため、単純な地下鉄新設とは違い、影響範囲が広いものでした。
ただし、「市民が地下鉄を嫌ったから計画が潰れた」と一本化するのは慎重であるべきです。経済情勢の悪化や建設費、国鉄線改良の必要性、広電との調整なども同時に存在していたためです。
市民反対は複数要因の一つとして見るのが妥当で、「反対を恐れた行政が逃げた」という単純な構図にすると、当時の複雑な交通政策を説明しきれません。
広島電鉄を守るために地下鉄を造らなかったのか
広島は現在「路面電車の街」という印象が非常に強いため、「広電を守るため地下鉄を排除したのではないか」と考える人もいます。しかし、当初の地下鉄計画を見る限り、その説明も単純すぎます。
広島電鉄自身の社史によると、広島市が1969年に地下鉄構想を発表した当時、地下鉄が開通すれば広電の市内電車は全廃になると考えられていたとされています。[参照]
つまり少なくとも計画初期の広島市が「路面電車を何としても保護しなければならない」と考えて地下鉄を避けた、という構図ではありません。むしろ地下鉄計画は、既存路面電車のかなりの部分を置き換える可能性を持つ計画でした。
地下鉄計画が進まない間に広島電鉄が路面電車を立て直した
地下鉄が完成すると市内電車が廃止される可能性があった一方、その地下鉄が完成するのはかなり先と想定されていました。その間にも広電は経営を維持しなければなりませんでした。
広島電鉄の公式社史によると、同社は大阪市や神戸市など路面電車を廃止した都市から大型車両を購入し、ワンマン運転を導入するなど合理化を進めました。また広島県警へ働きかけ、1971年には軌道敷への乗用車乗り入れ禁止が復活し、路面電車の走行環境も改善されました。[参照]
つまり「保守的な土地柄だから古い路面電車を残した」というより、地下鉄が実現しない間に、広電自身が路面電車を効率化・近代化して都市交通として生き残らせたという側面が大きいのです。
その後の広島は地下鉄ではなく新交通システムを選択した
地下鉄計画が後退しても、広島北西部から都心への交通問題が消えたわけではありません。そこで広島市が選んだのが、現在のアストラムラインにつながる新交通システムでした。
アストラムラインは1994年8月に開業し、現在は18.4kmの路線を持っています。広島市は現在も広域公園前駅からJR西広島駅まで約7.1kmを延伸する「新交通西風新都線」の整備を進めています。概算事業費は約760億円とされています。[参照]
アストラムラインも都心部では地下を走るため、「広島では地下鉄を掘れない」というイメージとは明確に矛盾します。
現在の広島は「路面電車を優遇」ではなく複数交通機関を組み合わせる政策
現在の広島市の交通政策を見ると、広電だけを保護して他の鉄道を排除するという構造にはなっていません。
広島市はJR、広島電鉄、アストラムライン、バスなどを組み合わせた公共交通ネットワークの形成を政策として進めています。2026年時点でも、JR山陽本線を介してアストラムラインを西広島へ接続し、環状型の基幹公共交通ネットワークを形成する計画が進められています。[参照]
一方、広島駅では広電の駅前大橋ルートなど路面電車の大規模な再整備も進められました。広島市はJR西日本・広島電鉄などと連携し、路面電車、JR、新交通、バスをそれぞれ役割分担させる方向にあります。[参照]
福岡や仙台に地下鉄があって広島にない理由は都市規模だけでは説明できない
広島市と比較されやすい福岡市や仙台市には地下鉄があります。しかし地下鉄の成立は人口規模だけでは決まりません。
路線を建設しようとした時代、既存の私鉄・国鉄・路面電車網、道路整備、都市の人口分布、財政状況、国の補助制度などによって選択肢は変わります。
広島では本格地下鉄を計画した時期にオイルショックが重なり、同時に国鉄・広電との大規模な直通運転を想定した複雑な計画でもありました。その後、新交通システムへの補助制度が整備され、アストラムラインという別の選択肢が現実化しました。この「政策を選択した時代の違い」が現在の都市交通の姿に大きく影響しています。
地盤・採算・広電のどれか一つを原因にするのは無理がある
広島に地下鉄がない理由を整理すると、「軟弱地盤だから」「採算が悪かったから」「広電を守ったから」のどれか一つだけを正解とするのは難しいことが分かります。
| よくある説明 | 実際の評価 |
|---|---|
| 地盤が緩く地下鉄を造れなかった | 不正確。軟弱地盤・高地下水はコスト増要因だが地下建設自体は可能 |
| 地下鉄計画そのものがなかった | 誤り。1960年代末~1970年代に具体的な都市高速鉄道計画が存在 |
| 採算性・建設費が原因 | 重要な要因の一つ。大規模な既存鉄道改良も必要だった |
| 行政が最初から消極的だった | 単純化しすぎ。行政は一時かなり具体的な地下鉄計画を推進 |
| 広電を守るため地下鉄を造らなかった | 根拠は弱い。当初計画では広電市内線の大幅整理・廃止も想定 |
| 市民の反対 | 影響した要因の一つと考えられるが、それだけでは説明できない |
| オイルショック | 建設費・財政環境を悪化させた重要な時代的要因 |
実際にはこれらが複合的に作用し、その後にアストラムラインという代替的な都市高速交通が選択された、と考えるのが最も自然です。
まとめ:広島に地下鉄がない理由を「軟弱地盤」だけで説明するのは俗説に近い
「広島は地盤が緩いから地下鉄を造れなかった」という説明は、完全な作り話ではありませんが、歴史的経緯を説明するには明らかに単純すぎます。太田川デルタの軟弱地盤や高い地下水位は地下工事を難しくし、建設費を高める要因でした。しかし国土交通省が説明しているように、紙屋町地下街では実際に地盤改良をしながら地下構造物を建設しています。アストラムラインにも地下区間があります。[参照]
また1960年代末から1970年代には、広島市中心部に地下鉄を造り、国鉄可部線・呉線・芸備線や広電宮島線などと結ぶ大規模な都市高速鉄道計画が実際に検討されました。計画が存在したこと自体が、「地盤のため地下鉄が技術的に不可能だった」という説への強い反証になります。
一方で、「結局は行政が採算を恐れて逃げた」という説明も単純化しすぎです。当初の市側は地下鉄構想をかなり具体的に進めていました。実現を難しくしたのは、地下建設費、軟弱地盤への対策、国鉄や広電との直通に必要な大規模改良、1973年のオイルショック、市民の反対などが重なった結果と考える方が妥当です。JR西日本も、計画には線路幅の違いなど多くの技術的課題があり、オイルショック以降に構想の勢いが失われたと説明しています。[参照]
さらに「広島電鉄を優遇する保守的な風土が地下鉄を阻止した」という見方にも注意が必要です。広島電鉄自身の記録では、1969年に地下鉄構想が発表された際には地下鉄開通後に市内電車が全廃になると考えられていました。[参照]つまり地下鉄計画当初から広電を温存する政策だったわけではありません。
結果として広島では地下鉄計画が実現しない間に広電が路面電車を合理化・近代化して存続し、さらに行政は地下鉄より比較的現実的な新交通システムを選び、現在のアストラムラインにつながりました。したがって広島の都市交通史は、「地下鉄を造れなかった都市」というより、「地下鉄も本格的に検討したが、経済・技術・既存交通・市民合意を踏まえて別の交通システムへ転換した都市」と捉えるのが最も実態に近いでしょう。


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