タクシー乗務員は、酔った乗客から暴言を受けたり、運賃や走行ルートをめぐって理不尽な要求をされたりすることがあります。しかし、乗客だからといって、運転手に対して何を言っても何をしても許されるわけではありません。特に「殺すぞ」など生命・身体への危害を告げる発言や、車内設備を激しく叩くような威圧的行為は、単なるクレームの範囲を超え、カスタマーハラスメント(カスハラ)や刑事上の問題になる可能性があります。
また、トラブルが乗車中に発生したからといって、その場で警察を呼ばなかった場合に一切対応できなくなるわけではありません。後日の警察相談や勤務先への報告、状況によっては弁護士への相談も検討できます。重要なのは、感情的に相手と争うことではなく、ドライブレコーダーや乗車記録など客観的な資料を早めに確保することです。
タクシー客の暴言や脅迫はカスハラになり得る
厚生労働省は、顧客等からのクレーム・言動のうち、要求内容の妥当性に照らして、その要求を実現するための手段・態様が社会通念上不相当であり、それによって労働者の就業環境が害されるものを、カスタマーハラスメントとして整理しています。代表例には身体的な攻撃、脅迫、暴言、威圧的な言動などがあります。
そのため、タクシーの走行ルートについて乗客が「もっと近い道があったのではないか」と普通に質問する程度であれば、通常の問い合わせやクレームの範囲です。一方で、その要求に伴って「殺すぞ」などと脅したり、防護板を激しく叩いたりする行為まで正当化されるわけではありません。
つまり、「乗客側の言い分に一部もっともな点があるか」と「暴力・脅迫的な方法が許されるか」は別の問題として考える必要があります。仮に走行経路について確認すべき点があったとしても、それを理由として乗務員に危害を告知したり、暴力的な威圧を行ったりしてよいことにはなりません。
厚生労働省のカスタマーハラスメントに関する資料では、身体的な攻撃や精神的な攻撃(脅迫、暴言等)、威圧的な言動などが社会通念上不相当となり得る行為として示されています。詳しくは[参照:厚生労働省「職場におけるハラスメントの防止のために」]で確認できます。
「殺すぞ」という発言は脅迫罪の問題になる可能性がある
カスハラは職場での対応を考えるための概念ですが、行為の内容によっては、それとは別に刑法上の犯罪に該当する可能性があります。
刑法222条は、生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加える旨を告知して人を脅迫する行為を処罰対象としています。このため、具体的な状況によりますが、乗客が乗務員に対して「殺すぞ」と発言する行為は、脅迫罪に該当する可能性があります。
もちろん、特定の発言が実際に犯罪を構成するかどうかは、発言の前後関係、口調、状況などを踏まえて警察・捜査機関等が判断することになります。そのため、ネット上で「必ず脅迫罪になる」と断定することは適切ではありません。
また、防護板を叩いた行為についても、叩き方、対象、乗務員への有形力の行使の有無、設備が壊れたかなどによって法的評価が変わります。刑法の暴行罪は、人に対する暴行があり傷害に至らなかった場合を対象としています。設備を壊した場合には別の犯罪が問題になることもあります。刑法の条文は[参照:e-Gov法令検索「刑法」]で確認できます。
後日になってからでも警察へ相談できる
危険な乗客を降ろした後に「その場で110番すればよかった」と思うこともあります。しかし、事件が終了しているからといって、警察への相談ができなくなるわけではありません。
生命・身体への具体的な脅迫を受けた場合や暴力的な行為があった場合には、勤務先へ報告したうえで、警察署に相談することを検討できます。今まさに危険が迫っている緊急時には110番、緊急性がなく相談したい場合には警察相談専用電話「#9110」などが選択肢になります。
特に、乗客から明確な脅迫を受けたケースでは、「カスハラだったかどうか」だけにこだわる必要はありません。厚生労働省が2026年に公表したカスタマーハラスメント防止指針でも、暴行・傷害・脅迫など犯罪に該当し得る言動については警察へ通報することが示されています。
また、2026年10月1日からは、改正法に基づくカスタマーハラスメント対策が事業主に義務付けられます。乗務員個人だけで抱え込むのではなく、会社として対応する仕組みがより重要になります。[参照:厚生労働省「従業員を守るために―カスタマーハラスメント対策の新ルール」]
タクシーのカスハラでは証拠を早めに保存することが重要
後日警察や弁護士へ相談する可能性があるなら、最初に行いたいのが証拠の確保です。時間が経過すると記憶が曖昧になり、ドライブレコーダー等のデータが上書きされる可能性もあります。
具体的には、車内・車外ドライブレコーダーの映像や音声、乗車日時、乗車地点、降車地点、運賃、走行経路、配車・決済に関する記録、乗客から言われた内容を記録したメモなどを可能な範囲で保存します。勤務先が管理しているデータについては、削除・上書きされる前に会社へ事情を説明して保存を依頼することが重要です。
例えば「深夜0時30分ごろ、横浜市内を走行中、ルートについて抗議を受け、『殺すぞ』と言われた。その直後に防護板を複数回叩かれた」といった形で、日時・場所・発言・行動を時系列にしておくと、後から第三者へ説明しやすくなります。
厚生労働省のカスタマーハラスメント対策企業マニュアルでも、事実関係を正確に確認するため、顧客や従業員等からの情報を基に、確かな証拠・証言によって確認することの重要性が示されています。[参照:厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル」]
GO Payなどの決済記録は相手特定の手掛かりになるのか
アプリやキャッシュレス決済を利用した乗車では、事業者側に一定の取引記録が残っている可能性があります。ただし、乗務員が決済情報から自由に利用者の氏名・住所・カード情報などを調べてよいわけではありません。
個人情報の取扱いや開示にはルールがあるため、乗務員自身が乗客を特定しようとするのではなく、勤務先、警察、弁護士などを通じた適切な手続を利用することが基本です。
したがって、「GO Payで支払われたから自分で相手を特定できる」と考えるのではなく、決済方法、決済時刻、運賃、乗車記録などを会社へ伝え、必要な記録を保存してもらうことが現実的です。刑事事件として捜査される場合にどの情報が確認されるかは、捜査機関と各事業者の判断・手続によります。
「カスハラで訴える」場合は刑事と民事を分けて考える
一般に「カスハラで訴える」と表現されることがありますが、法的手続を検討するときは、刑事上の対応と民事上の対応を分けて整理すると分かりやすくなります。
| 対応 | 主な内容 |
|---|---|
| 勤務先への報告 | カスハラ事案として記録し、映像・乗車記録等を保存してもらう |
| 警察への相談 | 脅迫・暴行等の犯罪に該当する可能性について相談する |
| 弁護士への相談 | 損害賠償請求など民事上の対応が可能か検討する |
| 事業者としての対応 | 悪質な利用者への警告や今後のサービス提供に関する対応等を検討する |
民事上の損害賠償請求が認められるかどうかは、具体的な行為、被害、因果関係、証拠などによって変わります。「暴言を受けた」という事実だけで必ず慰謝料を請求できるわけではないため、実際に請求を考える場合には弁護士へ資料を見せて判断してもらうのが安全です。
一方、生命・身体に対する脅迫など犯罪に該当し得る行為については、民事訴訟を起こすかどうかとは別に警察へ相談できます。厚生労働省の指針でも、犯罪に該当し得る言動は警察への通報、法的手続が必要な場合は弁護士への相談という対応が示されています。
危険な乗客にはその場で一人で対応し続けない
タクシーは密閉された車内で乗客と乗務員が近い距離になるため、暴力的な乗客への対応では安全確保が最優先です。特に飲酒した乗客が興奮し、脅迫や物を叩く行為に発展している場合、乗務員だけで説得し続けることには危険があります。
現実に生命・身体への危険を感じる状況になった場合には、可能な範囲で安全な場所へ移動し、会社の緊急対応手順に従い、必要なら110番通報を検討します。相手を言い負かそうとしたり、売り言葉に買い言葉で応酬したりすることは避けるべきです。
また、勤務先にカスハラ対応窓口や事故・トラブル担当部署がある場合は、帰庫後すぐに報告します。2026年10月1日から事業主のカスタマーハラスメント対策が義務化されるため、会社側にも相談体制や悪質事案への対応方針などを整備することが求められます。
まとめ:脅迫や暴力的行為は「接客だから仕方ない」で済ませる必要はない
タクシー乗務中には、走行ルートや料金について乗客から不満を言われることがあります。正当な問い合わせには説明が必要ですが、「殺すぞ」などの脅迫や、暴力を感じさせる威圧的な行為まで接客業として受忍しなければならないわけではありません。
このような事案が発生した場合は、まず安全を確保し、勤務先への報告とドライブレコーダー・乗車記録・決済記録等の保存を行うことが重要です。犯罪に該当する可能性がある行為については警察へ相談し、損害賠償など民事上の請求まで検討するのであれば弁護士への相談が選択肢になります。
カスハラか犯罪かを乗務員自身だけで最終判断する必要はありません。事実を時系列で記録し、証拠を確保したうえで会社・警察・弁護士など適切な窓口につなぐことが、後日の対応を可能にする最も重要な準備です。


コメント