北海道・稚内からフェリーでロシアへ行けた?サハリン・コルサコフ航路の歴史と利用者数を解説

フェリー、港

北海道の最北端に近い稚内とロシア・サハリンの間には、かつて一般の旅行者が利用できる国際航路がありました。行き先はロシア極東のサハリン州南部にあるコルサコフで、稚内港とコルサコフ港を直接結んでいました。現在は定期航路が休止しているため意外に感じる人も多いでしょう。実際の利用実績を見ると、北海道民の誰もが利用するような一般的な交通手段ではなく、フェリーでサハリンへ渡った経験のある人は北海道全体から見れば少数派だったと考えるのが妥当です。ただし、航路自体は20年以上続いており、日本人旅行者だけでなくロシア人、ビジネス客、交流事業の参加者、車やバイクで旅行する人などに利用されていました。この記事では、稚内からロシアへ渡れたフェリーの歴史、実際の利用者数、なぜ航路があったのか、現在はどうなっているのかを公式資料を中心に整理します。

稚内からロシア・サハリンへ本当に船で行けた

稚内市によると、稚内港とロシア・サハリン州のコルサコフ港を直接結ぶ「稚内・コルサコフ定期航路」は1995年に開設されました。北海道とサハリン州、そして日本とロシアの地域間交流を20年以上にわたって支えてきた航路です。[参照:稚内市・サハリン定期航路]

したがって「昔、稚内あたりからロシアへ行くフェリーがあった」という記憶はほぼその通りです。目的地はロシア本土ではなく、北海道の北に位置するサハリン島の港町コルサコフでした。

コルサコフは日本統治時代には「大泊」と呼ばれていた場所です。稚内市とコルサコフ市は1991年に友好都市提携を結んでおり、地理的にも歴史的にも深い関係があります。[参照:自治体国際化協会・稚内市とコルサコフ市の友好都市提携]

北海道民で実際に乗った人は少数だった?

「北海道の人なら結構乗ったことがあるのでは」と思うかもしれませんが、利用者数を見ると、北海道全体ではかなり珍しい経験だったと考えられます。

例えば稚内市の資料では、2003年度(平成15年度)のサハリン航路利用者は、日本人2,861人、ロシア人1,864人、その他169人でした。2004年度は日本人2,769人、ロシア人2,516人、その他118人、2005年度は日本人3,091人、ロシア人2,639人、その他213人です。[参照:稚内市・サハリン航路フェリー主要国籍別利用者数]

ここで注意したいのは「日本人利用者=北海道民」ではないことです。北海道外からサハリン旅行のために稚内を訪れた人も含まれるため、実際に利用した北海道民の人数はこの数字だけでは分かりません。

それでも北海道の人口規模と比較すれば、「北海道に住んでいる人の中で、稚内からフェリーに乗ってロシアへ行ったことがある人」は少数派だったと見るのが自然です。

最盛期でも年間旅客数は約6,500人だった

稚内・コルサコフ航路は単なる観光船ではなく、旅客と貨物の両方を運ぶ国際航路として利用されていました。JETROによると、最盛期にはサハリンの石油・ガス開発プロジェクト向けの車両、重機、食料なども運ばれ、年間貨物量約7,000トン、旅客数約6,500人という実績がありました。[参照:JETRO・稚内~コルサコフ航路]

年間6,500人を単純に365日で割れば1日平均約18人に相当しますが、実際には年間を通して毎日運航していたわけではなく、主に季節運航でした。それでも国内の主要フェリー航路や鉄道、航空機と比べれば利用者数は非常に限られていました。

そのため札幌や函館、旭川など北海道の別地域に住んでいた人にとっては、「存在は知っていたけれど乗ったことはない」というケースの方が一般的だったと考えられます。

2000年代には年間2,000~3,000人ほどの日本人が利用した年もある

一方で、「ほとんど誰も乗らなかった船」というわけでもありません。稚内市統計書を基にした資料では、2003~2007年度の日本人利用者数は年間約2,000~3,100人で推移しています。

年度 日本人 ロシア人 その他
2003年度 2,861人 1,864人 169人
2004年度 2,769人 2,516人 118人
2005年度 3,091人 2,639人 213人
2006年度 2,526人 3,474人 681人
2007年度 2,010人 2,559人 126人

この数字からも、日本人が普通に利用できる国際航路として機能していたことが分かります。ただし北海道民だけの統計ではないため、「北海道民の何%が乗ったか」を正確に計算することはできません。

2010年には稚内発の初便に34人が乗っていた

当時の雰囲気が分かる記録も残っています。稚内市によると、2010年は6月8日から9月17日まで稚内・コルサコフ航路が28往復する計画で、その年最初のコルサコフ行きには34人と約100トンの貨物が乗っていました。[参照:稚内市・2010年の稚内・コルサコフ航路]

乗客には大きな荷物を持った人や家族連れだけでなく、オーストラリアから来たバイク旅行者などもいたと稚内市が紹介しています。

つまり利用目的は北海道民の日常的な移動というより、国際交流、観光、仕事、帰省・訪問、海外ツーリングなど比較的特殊なものが中心だったと考えると実態をイメージしやすいでしょう。

車やバイクをフェリーに載せてサハリンへ行く人もいた

この航路ならではの旅行方法が、車両を船に載せてサハリンへ渡る旅でした。2015年の運航について稚内市は、「愛車をフェリーに積み込み、サハリンを走り回る」という旅行が注目されていたと紹介しています。[参照:稚内市・2015年稚内・コルサコフ航路]

実際、2015年の初便でもサハリンで使用する自動車やオートバイを積み込む旅行者がいました。北海道から船で外国へ渡り、そのまま自分の車両で海外を走るという、日本ではかなり珍しい旅行が可能だったわけです。

そのためフェリー旅行やバイクツーリングが好きな人の中には、稚内~サハリン航路を印象深い国際航路として覚えている人も少なくありません。

アインス宗谷という国際フェリーが有名だった

この航路を代表する船が「アインス宗谷」です。JETROによると、ハートランドフェリーは1999年度から貨客船を定期運航していました。

アインス宗谷は稚内とコルサコフを結び、旅客だけでなく自動車や貨物も運べることが大きな特徴でした。2013年には5月から9月まで28往復が計画され、その年の初便には67人が乗船しています。うち22人は1泊2日のツアー参加者でした。[参照:稚内市・2013年の稚内・コルサコフ航路]

しかし採算面などの問題から、ハートランドフェリーによる運航は2015年度を最後に終了しました。

2016年からは小型の旅客船で航路を維持した

ハートランドフェリー撤退後も、稚内とサハリンを結ぶ航路を残す取り組みは続きました。2016年からはロシア側の海運会社などが関わり、小型旅客船による運航へ移行しています。

2017年に使用された「ペンギン33」は、6月5日から9月21日まで34往復68便を運航しました。しかし年間乗客数は1,374人で、日本人485人、ロシア人807人、その他外国人82人でした。一便当たりの乗船率は25.2%です。[参照:稚内市・ペンギン33 2017年運航実績]

この数字を見ると、航路末期にはかなり利用者が限られていたことが分かります。2017年の日本人利用者485人には北海道外の人も含まれるため、この時期に実際に船でサハリンへ行った北海道民となるとさらに限定的だった可能性があります。

最後の2018年は678人が利用した

稚内市によると、2018年は8月8日から9月21日まで16往復32便が運航されました。台風などの影響で6便が欠航しています。

この年の乗客は合計678人で、内訳は日本人279人、ロシア人375人、その他外国人24人でした。一便当たりの乗船率は約26%です。[参照:稚内市・2018年稚内・コルサコフ定期航路]

2018年には日本人が電子ビザを利用してコルサコフ港からロシアへ入出国することも可能になっていました。それでも日本人利用者はシーズン全体で279人でしたから、当時でもかなりレアな海外旅行だったことが分かります。

稚内とサハリンはなぜ船で結ばれていたのか

理由の一つは圧倒的な地理的近さです。北海道の宗谷岬からサハリン南部までは、晴れた日には島影を見ることができるほど近接しています。稚内にとってサハリンは、海を挟んだ非常に近い外国です。

さらに稚内市とコルサコフ市は1991年から友好都市関係にあり、行政・経済・文化などさまざまな交流が行われてきました。定期航路は観光だけでなく、この地域間交流を支える交通インフラという意味も持っていました。

サハリンの石油・天然ガス開発が活発だった時期には、貨物輸送の需要もありました。最盛期に年間約7,000トンの貨物を運んだ実績があることからも、単なる観光フェリーではなかったことが分かります。

実は戦前にも稚内から現在のコルサコフへ船が出ていた

稚内とサハリンを結ぶ船の歴史は1990年代よりはるかに古く、1923年までさかのぼります。当時、日本領だった南樺太の大泊と稚内を結ぶ「稚泊航路」が開設されました。大泊は現在のコルサコフです。

国土交通省北海道開発局によると、稚内港は1923年に稚内・大泊航路が開設された後、22年間にわたり樺太との中継港として重要な役割を果たしました。[参照:国土交通省北海道開発局・重要港湾 稚内港]

当時は鉄道で稚内まで来て、そこから連絡船で樺太へ渡る交通ルートが形成されていました。現在も稚内港に残る巨大な「北防波堤ドーム」は、この樺太航路と深い関係を持つ歴史的建造物です。

戦前の稚泊航路は現代のサハリン航路とは規模が全く違った

興味深いのは、戦前と現代では利用規模が大きく違うことです。自治体国際化協会の資料では、戦前の稚内~大泊間の稚泊航路は開業から終戦までの約20年間で延べ約320万人が利用したとされています。[参照:自治体国際化協会]

当時の南樺太は日本の統治下にあり、鉄道と連絡する重要な交通路だったため、1995年以降の国際フェリーとは性格そのものが違います。

第二次世界大戦終結に伴い1945年に稚泊航路は終了しました。その後、約半世紀を経て、今度は日本とロシアを結ぶ国際航路として稚内~コルサコフ航路が復活したという歴史があります。

北防波堤ドームを見ると当時の国際航路を実感できる

現在の稚内を訪れると、稚内港北防波堤ドームという独特の巨大建造物を見ることができます。この施設はもともと大泊港との貨客船発着場や道路、鉄道などを波浪から守るために建設されたものです。[参照:国土交通省北海道開発局・稚内港北防波堤ドーム]

1938年にはドームの前に「稚内桟橋駅」も開業し、列車から船へ乗り継げるようになりました。現在の感覚でいえば、鉄道駅と国際フェリーターミナルが直結していたようなものです。

現在は観光スポットとして知られる北防波堤ドームですが、なぜこれほど立派な港湾施設が日本最北端の街に存在するのかを知るには、樺太との航路の歴史が重要になります。

現在、稚内・コルサコフ定期航路は休止中

稚内市の公式情報によると、稚内・コルサコフ定期航路は2018年の運航を最後に、2019年から休止しています。さらに航路の利用促進や再開に向けて北海道・サハリン間などで続けられていた取り組みについても、2022年度以降は停止されています。[参照:稚内市・サハリン定期航路]

したがって、現在は昔のように「稚内へ行って定期フェリーに乗り、コルサコフからロシアへ入国する」という旅行はできません。

なお稚内市は、定期航路そのものは休止中であるものの、ロシアをはじめ外国から旅客を乗せた船舶が稚内港へ入出港する事例はあるとしています。これはかつての定期航路が復活したという意味ではないため、区別が必要です。

「北海道民ならロシアへ船で行ったことがある」は一般的ではない

北海道とロシアは地図上では非常に近く、特に稚内からサハリンを見ると「ちょっと海を渡れば外国」という印象を受けます。しかし、実際に国境を越えるとなればパスポートや当時必要だった査証などの入国手続きがあり、国内フェリーのように気軽に利用できる交通機関ではありませんでした。

また航路は季節運航が中心で、稚内まで行く必要もあります。札幌から稚内だけでもかなり距離がありますから、北海道在住者だからといって簡単に利用できるわけではありません。

利用統計から見ても、日本人利用者が比較的多かった2000年代で年間数千人、2017年は485人、2018年は279人でした。その中には道外在住者も含まれています。したがって「北海道の人なら何人かに一人は乗ったことがある」というほど一般的な経験ではなかったと考えられます。

一方で稚内ではサハリンは身近な存在だった

北海道全体で見れば利用経験者は少数でも、稚内という地域に限ればサハリンとの関係はかなり深いものがあります。稚内市とコルサコフ市は友好都市であり、定期航路を利用した行政・文化・青少年などの交流も長年続けられていました。

さらにコルサコフだけでなく、稚内市とサハリン州の都市との地域交流が積み重ねられてきたため、仕事や交流事業などで船に乗った経験を持つ稚内・宗谷地域の人に出会う可能性は、北海道の他地域より高かったと考えられます。

つまり「北海道民」という非常に大きなくくりで見る場合と、「稚内周辺の住民」で見る場合では、サハリン航路に対する身近さがかなり違っていたわけです。

稚内~サハリン航路の歴史を時系列で整理

稚内とサハリンの航路は、戦前の国内交通路と戦後の国際航路という二つの時代に大きく分けられます。

主な出来事
1923年 稚内~大泊(現在のコルサコフ)の稚泊航路が開設
1945年 終戦に伴い稚泊航路が終了
1991年 稚内市とコルサコフ市が友好都市提携
1995年 稚内・コルサコフ定期航路が開設
1999年 ハートランドフェリーによる貨客船の定期運航が始まる
2015年 ハートランドフェリーによる運航が終了
2016年 ロシア側の船舶を利用した旅客航路として運航継続
2018年 16往復32便、678人が利用
2019年~ 稚内・コルサコフ定期航路が休止
2022年度~ 航路再開・利用促進に向けた地域間の取り組みも停止

こうして見ると、戦後の国際航路だけでも20年以上の歴史があります。「昔ちょっとだけ存在した幻の航路」というより、採算面の課題を抱えながらも長期間維持されてきた国際交通ルートだったことが分かります。

まとめ:フェリーでロシアへ行った北海道民は実在するが、全体ではかなり珍しい経験

北海道の稚内からロシアへ行く船は実際に存在しました。戦後の「稚内・コルサコフ定期航路」は1995年に開設され、サハリン南部のコルサコフと稚内を20年以上にわたって直接結んでいました。

2000年代には年間2,000~3,000人程度の日本人が利用した年もあり、最盛期の航路全体では年間約6,500人の旅客を輸送した実績があります。車やバイクを載せてサハリンへ渡る旅行者もおり、観光だけでなく仕事や国際交流、貨物輸送にも使われていました。

ただし、日本人利用者の中には北海道外から来た旅行者も含まれます。2017年には日本人利用者485人、最後の運航となった2018年には279人まで減っていました。そのため「北海道の人で稚内からフェリーに乗ってロシアへ行ったことがある人」は確実に存在しますが、北海道民全体で考えればかなり少数の経験だったと考えてよいでしょう。

一方、稚内周辺ではサハリンとの行政・経済・文化交流が長く続いていたため、北海道の他地域より身近な航路でした。また稚内と現在のコルサコフを結ぶ航路の歴史そのものは戦前までさかのぼり、1923年から1945年には「稚泊航路」が存在しました。

現在の定期航路は2018年の運航を最後に2019年から休止しており、航路再開に向けた地域間の取り組みも2022年度以降停止しています。現在の稚内港北防波堤ドームなどに残る港の景観は、北海道最北の街がかつて海を越えてサハリンと直接結ばれていた時代を伝える貴重な痕跡でもあります。

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